本作はイメージ画像を使ったフィクションであり、撮影協力者及び実在する人物・団体等とは関係がありません。

 

 

 

 

 

 それは瞬間の出来事だった。

鋭利な刃物で刺すかのように瞬時に切り込み、平らに固められたコンクリートの表面を削りとるかのように喰らいつき

急速にスピードを殺した。

その動きには乱れが全くなく、無駄がない。

隙の無い佇まいからは、この程度のことはあたりまえのことであるのだろう。

表情は見えなくても滲み出すかのように伝わってくる。

苛立っているわけでなく、焦っているわけでもなく、ただ淡々といつもの自分のラインを走っているのだと。

 

 

 極限の領域。

抗う風が勢いを増して襲いかかってくる。

勢いが増せば増すほどピタリとして動じる気配が微塵もない。

剛性的な性能も勿論あることだろうが、ドライバーの意識がそのまま映っていると思える。

その姿は落ち着き払ったもので、そして艶やかだ。

遠退いていく風景とのコントラスト。

煌く美しさで包まれた華やかな印象が辺り一帯に漂う。

 故意であれ偶発的なことであれ、立ち塞ぐものは些細な動きでわかる、というレベルを超えている。

それは「操る」という言葉では表現不足であり、クルマと「一体である」という言葉でもまだ足りず、

意識が目の前の道そのものになっているのではないかとさえ思えてくるほどだ。

自分の周りに存在するもの、そのすべては自分が描き作り出した流れのひとつであると、

無意識にでも悟っているのではないだろうか。

躊躇いなく踏み込み、一秒たりとも考える時間を与えることなく去っていく。

そして、そのあとには何も残らない。

まるで、うたかたの夢でも見ていたかのように・・・・・。

 

 

 力が必要な世界だが、金をふんだんにつぎ込んだ、これ見よがしな力自慢とは方向性が異なる。

死と隣あわせといってもいいであろう、この世界においては信用がなにものにも代えがたい。

目を惹くようなもので仕上げてみることも、それはまた別の面白みがあることも当然知っているだろうし、

機会があれば、いつかやってみたいと思う気持はクルマ好きなら誰にだってあることだろう。

しかし、シンプルな構成で十分にいけるということも、またその長い経験から体得している。

むしろ、このステージにおいては純正部品でないと危ない箇所もあるくらいなのだと、そう教えてくれた。

ある意味、サーキットよりも過酷な状況を繰り返しトライしてきたからこそ知り得た実戦の知恵。

勝ち続けてきたその裏には、表に出せない場面も幾度となくあったに違いない。

そして、そこで噛み締めてきた苦い想い、深い悲しみがフィードバックされているのだとも言外に伝わってくるようだ。

知る人ぞ知るエキスパート達の手によって掛け値なしに作り込まれているのは、

この世界が彼にとってのすべてであるからだろう。

だからこそ手を組むパートナーは、その真っ直ぐな意志に心を動かされ、魂を注ぎ込む。

 

 

 

 クルマを走らせるということは瞑想に耽ることと同じようなものではないか。

最近、私はそう思うようになってきた。

動的瞑想とでも呼ぶのがふさわしいのかもしれない。

流れる景色の中に自分自身の意識が映しだされ、さまざまな思いが湧き上がってくる。

その思いをありのままに感じてみる。

答えをひねり出そうと思考をめぐらせるのではなく、自分がいま思っていること、そのイメージに意識を集中させていく。

やがて思いは溶けてなくなり、奥深くに潜んでいた熱いエネルギーが流れ出す・・・・

 

 

ただ速さの中にいればいい。

考えるからわからなくなる。

なにをしたらいいのか。

なにが自分にとって良いことなのか。

外に求めても答えは無い。

たぶん答えそのものが必要なのではなく、問い続けることに意義があるのだろう。

葛藤の中にいることが意識を一層研ぎ澄ませる。

 

 

 

 高回転で律されるハイカムの息づかい。

闇夜に煌くオレンジ色で染まったままの視界。

都会の輝きが流れてゆく。

油温計を一瞥してからシフトを上げ、アクセルペダルを踏み込む。

速くなればなるほど、時の流れは穏やかになっていく。

自分が走り向かっているというよりも、未来の景色がこちら側に向かってくるかのようだ。

もしかしたら、未来の自分が行く道を指し示そうとしてくれているのかもしれない・・・・。

瞬間、踏み切っていることに気づく。

リミットに張り付き、しかし、後戻りはしたくない領域にいる。

意識は遠い一点に集められたままで静まっている。

路面を掻き続け、熱を帯びたタイヤ。

限界まで吐き出し、高温で焼けきったエグゾースト。

強大な圧力を受け止め高速回転するクランクは、壊れんばかりに捻曲げられていることだろう。

切り裂く風の音が澄みきると、やがてエクスタシーに包まれていく・・・・。

 

 

 速さの中で魂が感応している。

この領域に入ると、つまらない拘りなど抜け落ちていく。

念じ続けた夢は消失するかのように吹き飛び、絶対的に信じていた思いは崩壊する。

連想する恐怖心を作っていたのは、当たり前のように抱き続けていた値観に基づくものであったと目を覚ます。

そうなると、もはや心は穏やかに澄み、そして物事の本質が急に開けるかのように見え出してくるようだ。

 幸せとは求めることによって得られるのではなく、むしろ、その逆ではないか・・・・

たとえば、あたりまえに信じていた考え方に行き詰まり、思いきって手放した後で出会う奇跡。

たとえば、恋人との別れ、その寂しさに浸る中で目に留まる、街路樹の下で咲く小花の可愛さ。

たとえば、愛する人を失った哀しみの果てで生まれる、すべてを受け止められるやさしさ。

拘ってきた思いが溶け落ちることによって初めて得られるものが在ることを知る。

 

 

 長いこと、世の中が美しいものばかりになればいいと思っていた。

しかし、そう求めれば求めるほど、美しいものだけでは成り立たないとわかっていった。

美しくないと思えるものがあるからこそ、美しいと思えるものが存在し、認識することができるのではないか。

であれば、美しくないと思うものも、美しいと思うものと同じだけの存在価値があることになる。

 そもそも美しさの基準とは何なのか。

社会的に都合よく作られた美しさを、流されるままに信じてこまされてきたのではいないか。

思うに、すべての行為には意味があり、たとえ否定されるようなものであったとしても、そこには隠れた真実がある。

もはや、作られた外面、思い込まされてきた基準など、そんなものはどうでもいい。

意識は内なる心にこそ宿っている。

それぞれがもつ個性ある独自の美しさ、それを見出すことができるかどうか。

すべては自分の感性の中にこそ、その答えがあるのだろう。

 ・・・・ 美しいものを美しいと感じられる自分、

そして、そうは思えないものがあるとしたら、なぜ自分はそう思えないのか ・・・・。

美しくないと否定してしまう判断、その価値観があることに気づける自分になっていきたい。

いずれ、その偏った優劣の見方が外れ物事をありのままに見られるようになったとき、

もはや美しいも美しくないも通り越えて、そのどちらもが愛おしく思えてくるのではないだろうか。

あるがままに。

それで美しいのだと・・・・。

 

 

 

 速さの中で息を合わせていた。

ついに、速さそのものと化していった時に見えてくる世界・・・・

天高く突き抜けるかのように吼え続けるエンジン。

ぶちあたり、吹き飛んでいく工場街の風。

闇夜の中を流れ飛ぶ、光の連なり。

共に踏み切り、認め合った、その先に広がるもの。

有するパワーも、持てる技量も、それぞれが異なっている。

しかし、心は全開にして初めてつながることができるのだろう。

偽善も偽悪もなく、ただそれぞれが自分自身に素直である時を大切にしたいだけだ。

それがオレたちの世界。

きっと誰もが心奪われる・・・・

しかし、踏み切った者にしか、そのすべては見えてこない。

せつなくて、少し甘い情景が広がる、美しい世界。

 

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